給料を上げたのに笑顔がない――社長が社員の感謝を要求した日

社員が拍手しない朝

ビル「発表します! 今度、社員の待遇を見直す方向で検討します!」

ボブ「発表というより、検討するという発表だな」

エビー「まだ額も時期も決まっていないの?」

ビル「それでも拍手くらいは欲しいよ。僕は良い社長になろうとしているんだから」

ボブ「良い社長を演じる前に、具体的な変更を決めよう」

ビル「今朝、賃金のニュースも見た。世の中が給料の話でいっぱいだ。社員もきっと感動する」

エビー「社員が聞きたいのはニュースの見出しより、いつ何が変わるかでしょう」

ビル「経営者の熱意も評価してほしい」

ボブ「評価の対象を混ぜると話が進まないぞ」

ビルはかつて証券会社で営業していた頃、成果を発表すると周りが反応してくれる雰囲気が好きだった。その記憶のまま、朝礼用に紙吹雪まで用意した。しかし今回の待遇改善は、具体案がまとまっていない。社員の生活を思っているはずなのに、ビル自身の承認欲求が先に顔を出す。

ボブ「社員が静かなのは、賛成していないからだと決めつけてないか」

ビル「感謝の言葉がなかったから」

エビー「何に感謝するかは、相手が決めること。しかもまだ何も変わっていないわ」

ビル「こうして並べると、紙吹雪の方が待遇より先に確定している」

ボブ「そこだけ判断が速いな」

ボブ

紙吹雪だけが先に確定してる

賃金統計を社員の表情に変えない

厚生労働省は2026年11月6日、2026年9月分の毎月勤労統計調査の結果速報を掲載した。この調査は事業所の賃金や労働時間などの動きをとらえるもので、ビルの会社の社員がどの程度満足しているかを直接測ったものではない。名目の賃金と物価の影響を考慮した賃金では、読み取る内容も異なる。

賃金統計は社員の表情ではない

ビル「賃金の数字が出たら、それをもとに社員の気持ちも予測できると思った」

エビー「家賃も家族の事情も、仕事の負担も違う。全員を同じ表情にできないわ」

ボブ「平均的な賃金の動きは会社の判断材料になる。でも社内の希望は別に聞かなければ分からない」

ビル「じゃあ『嬉しいですか?』と聞こう」

エビー「その聞き方だと、社長の前で嬉しいと言うしかなくなるでしょう」

ビル「じゃあ匿名の『社長に感謝していますか』調査を」

ボブ「質問から自分を外そう」

ボブの問診が止まらない

医者のボブは、小さなメモ用紙に「症状ではなく状況」と書いた。

ボブ「待遇を変えたい理由は何だ? 採用が難しいのか、辞めそうな人がいるのか、物価の負担を考えているのか」

ビル「全部あり得る」

ボブ「あり得るだけなら、まだ原因は確定してない」

エビー「社員に聞くなら、困りごとを聞こう。給与以外にも、休日や仕事の進め方の話があるかもしれない」

ビル「給与の話を始めたのに別の問題が出てきたら、解決できないじゃないか」

ボブ「解決できない問題があるかもしれないことと、聞かない方がよいことは違う」

ビルは会議室の隅に置いた紙吹雪の袋を見た。役員が社員のために何かをする。それは大切なことだ。しかし気持ちの良い演出の裏で、予算が無理をしていたら、継続できない約束になる。

ビル「給料を上げると決めれば、僕の評価も上がると思っていた」

エビー「相手の生活を支える決定を、自分の評価を上げる手段にすると苦しくなるわ」

ボブ「まず会社の支払い能力を確認しよう。毎月続く費用は、発表日に拍手が多いからといって小さくならない」

博士は何をもって誠実と呼ぶのか

そこへシルクワーク博士が顔を出した。ビルは急いで紙吹雪を隠そうとしたが、袋が破れて机に散った。

博士「これは祝い事かな」

ビル「待遇改善の予定の、予定の、予告です」

博士「ずいぶん遠くから祝っているね」

三人が事情を話すと、博士はまず待遇を考えること自体を肯定した。ただし、社員の感謝を期待する発表とは切り分けた。

博士「仕事の対価や働きやすさを改善するのは、会社として検討すべきことだ。ただ、改善の成否を拍手の数で測ってはいけない。社員が安心できるのは、実行可能な条件と継続性が示されるときだよ」

ビル「社員から感謝されなくても、やる意味があるんですか」

博士「もちろん。君は『良い経営者に見えること』と『社員にとって良い条件をつくること』を入れ替えていた。後者には、原資の確認と公平な説明が必要になる」

待遇の話を進める順序

ボブ「同じ仕事をしている人同士で、説明のつかない違いを作るのも避けたい」

博士「そうだね。個別の事情には配慮しつつ、何を基準に決めるかを考える。まだ決められないことは、決めていないと正直に伝える。曖昧な予告だけが先行すると、期待だけが大きくなる」

エビー「社員の希望を聞いたら、すぐ実現できないことも出るわ」

博士「できない理由を一方的に押しつけず、現状と制約を説明しよう。そのうえで変えられる仕事の進め方があるかも考える。給料の相談を、単なるお金の値切り合いにしないことだ」

ビル「良かれと思っているのに、難しいな」

博士「大切なのは熱意の量より、相手の生活に関わる決定を扱う慎重さだよ。君が疲れていたり焦っていたりすると、早い約束で自分の気持ちを落ち着かせたくなる。まず、その衝動に気づこう」

シルクワーク博士

熱意より先に、慎重さと原資の確認を

聞こえなかった拍手の正体

ビルがようやく本音を話した。

ビル「会社を経営していると、頑張っても感謝されない日があるでしょう。だから社員に喜んでもらえる施策を発表して、自分も報われたかった。給料の話で自分の孤独を埋めようとしていました」

エビー「社員は社長の寂しさを埋めるために働いているわけじゃないものね」

ボブ「でも、社長の孤独を自覚できたなら、制度の話を冷静に進められる」

博士「そう。心の空白を予算で埋めようとしないことだ。待遇は会社と働く人の約束として決め、社長の疲れは別の形で扱おう。経営の責任を一人で感じるなら、相談できる相手を持ってよいのだよ」

ビル「ではまず、予算と社員の希望をそれぞれ整理します」

ボブ「それなら会議の議題になる」

エビー「紙吹雪は?」

ビル「決定したときまで保管」

博士「それがよいね。ただし、社員に投げる前に掃除の人の都合も考えよう」

最後のやらかし

翌朝、ビルは真面目な顔で紙を配った。

ビル「待遇改善に向けた、社長への感謝を不要とする宣言です」

ボブ「わざわざ『不要』と宣言する必要ある?」

エビー「何が欲しかったのか、逆によく分かる文面ね」

博士「社長が欲しい言葉を社員に考えさせるより、社員が必要としている条件を聞こう」

ビル「じゃあ宣言を取り消して、紙吹雪も……」

ボブ「まさか」

ビル「掃除機で集めて再利用する!」

エビー「待遇の原資は、そこから出ないと思うわ」

エビー

紙吹雪の再利用と、待遇の原資は別ね

給料のニュースは、社員の生活と会社の原資を見直す契機になる。だが感謝を引き出すための施策では長続きしない。何をいつ実行できるのかを確かめ、働く人の声を聞くことが、経営者の寂しさと経営判断を混ぜない方法だ。

働く人の心の不調や相談先については、厚生労働省の「こころの耳」に情報がまとめられています。

出典

厚生労働省「毎月勤労統計調査(2026年9月分結果速報)」(2026年11月6日公表)

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