DXと叫んだ社長が紙の申請書を倍にした

印鑑が増えるデジタル化

ビル「当社もついにDXを始める! まず全社員に新しいシステムの利用申請書を配ろう」

ボブ「それ、何枚あるんだ?」

ビル「申請が三枚、承認が二枚、完了報告が一枚」

エビー「デジタル化のために紙が増えていない?」

エビー

デジタル化で紙が増えてます

ビル「儀式があった方が改革を実感できるだろ」

ボブ「改革の実感ではなく、作業の改善を目標にしてくれ」

元証券マンのビルは、社長が旗を振ると会社が変わると考えがちだった。その日も「DX完了予定」と書いた横断幕を掲げ、会議の冒頭から拍手を求めた。

エビー「何を変えるシステムなの?」

ビル「従業員の申請をデジタル化する」

ボブ「ではこれまでの申請書はなくなるのか」

ビル「しばらくは二重に使う。紙に印鑑を押し、同じ内容をシステムにも入力する」

ボブ「二重入力が恒久化しそうだな」

ビル「安全のためだよ」

エビー「安全を理由に仕事を増やすなら、どんな危険を減らしたいのか確かめたいわ」

一番困っていた人の話

担当者がデジタル申請の画面を見せた。入力欄には、紙の申請書と同じ氏名、部署、承認理由が並んでいる。ところがシステムで申請しても、最終決裁は紙を印刷しないと進められない。

ボブ「それでは手間が増えただけじゃないか」

ビル「画面上で数字が並んでいる。未来的だ」

エビー「画面が未来的でも、仕事が進まなければ意味がないわ」

ビル「社員が慣れれば速くなる」

ボブ「慣れても同じ内容を二度書く理由は残る」

ビル「二度書けば間違いに気づくかもしれない」

エビー「それは狙っていた効果? それとも後付け?」

担当者は、承認待ちの仕事が止まる時間を短くしてほしいと伝えた。ビルが最初に決めた「システムを買う」という解決策とは、少し違う問題だった。

ビル「だったら承認する人を増やそう」

ボブ「権限の整理なしに増やすのは別の混乱になる」

エビー「まず、どの申請が誰を待って止まっているかを聞いてみたら」

ビル「そうすると社長の決断力より、現場の工夫が目立つじゃないか」

間違った成功報告

翌週、ビルは成果報告を作った。「システム導入済み」「研修を実施」「紙の申請書を新様式へ改定」。それらは事実だが、処理にかかる時間や社員の負担については書かれていない。

ボブ「導入は手段。業務改善の成果はどこにある?」

ビル「社員の表情が少し明るい気がする」

エビー「それはシステムの成果? それとも会議が終わるから?」

ビル「今日は質問が厳しいな」

ボブ「数字を測るなら、導入前後で何を比べるか決めよう」

エビー「申請した人がどこで困るかも知りたいわ」

博士は横断幕を下ろさなかった

シルクワーク博士が現れ、ビルの横断幕を見た。

博士「ずいぶん大きな旗だね。何を達成したのかな」

ビル「DXです。新しいシステムを入れました」

博士「では以前より何が良くなった?」

ビル「電子で申請できるようになりました」

博士「それは機能だね。社員が使うときに、申請の時間は短くなったかな。承認の経路は分かりやすくなったかな」

ビル「そこまでは測っていません」

博士「道具が新しいことと、仕事が改善したことを分けなさい。業務の目的と実際の手順を整理し、負担が増えたところがあれば直す。そのうえで必要な技術を選ぶことだ」

道具と改善を分ける

ボブ「既存の紙の仕組みも、なぜ残っているか理由を確認したいですね」

博士「そうだ。契約や規程によって残す必要があるものもあるだろう。しかし理由が分からないまま習慣だけを残すと、改善できる部分を見逃す」

エビー「社員に『これで楽になりましたか』と聞くより『どこに時間がかかりましたか』と尋ねる方が良さそう」

博士「誘導しない聞き方だね。使う人の話を聞くことは、社長の計画を否定する作業ではないよ」

シルクワーク博士

使う人の話は、計画の否定ではありません

博士はAI事業者ガイドラインのような公的な資料を例に、技術を使う際には利用目的とリスク管理が重要だと述べた。ただし、資料を持ってきただけで社内の申請工程が改善されるわけではない。

ビル「僕はデジタルという単語が好きで、業務を変える話を忘れていた」

博士「社長が言葉を覚えるのは結構だが、現場では実際の時間と責任を確認する必要があるのだよ」

手放したくなかったもの

ビルは会議後、ひとりで横断幕をたたみ始めた。

ビル「本当は、現場の細かい仕事を知らないとバレるのが嫌だった。大きな改革を宣言すれば、仕事を理解していなくても指導力があるように見えると思った」

エビー「看板が大きいほど、社長の不安も見えなくなると思ったのね」

ボブ「知らない業務を教えてもらうのは、弱さじゃない」

博士「導入前に作業を観察し、関係者と目的を共有する。変えた後も結果を確かめる。その積み重ねが改善だ。演説の巧さではない」

ビル「改革を始める前に、一度社員の隣で作業してみます」

デジタル横断幕の結末

翌月、ビルは業務改善案を持ってきた。紙とシステムの二重入力を見直し、承認が滞る部分を担当者と話し合う予定だ。

ボブ「ようやく目標が具体的になった」

エビー「横断幕は片付けた?」

ビル「もちろん。あれもデジタル化した」

ボブ「どうしたの?」

ビル「スキャンして、社員全員に印刷して配った」

エビー「紙がまた増えている!」

エビー

紙がまた増えている!

博士「改善したい仕事を、今日こそ一つ減らそうか」

DXはシステムの導入式ではない。現場の仕事がどう流れ、何が止まり、誰が困るかを見て初めて改善の道筋が分かる。社長が「分からない」と認められれば、デジタル化は威厳を示す行事から、実務を変える仕事に変わる。

現場の話を聞く聞き方

個人情報の取扱いのルールや相談先は、個人情報保護委員会が案内しています。働く人の心の不調や相談先については、厚生労働省の「こころの耳」に情報がまとめられています。

出典

経済産業省「AI事業者ガイドライン第1.2版」(2026年3月31日)

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